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「左衛門」の由来

「左衛門」の由来


「左衛門」という名前には2つの由来があります。

創業者 田中三好が創業以前に生業としていた「浪曲」から

浪曲は「浪花節」とも言われていますので、その名を知る方もおられるかもしれません。
そして、古くは「説教祭文」が浪曲の始まりだと言われています1。この「説教祭文」の「祭文(さいもん)」という音を転じて「さえもん」と解釈し「左衛門」の名前の由来の一つとしたそうです。


浪曲の演題のひとつ「勧進帳」から

「勧進帳」は三好の浪曲師時代の十八番(おはこ)でした。現在の石川県に位置する安宅の関での、源義経と弁慶をはじめとする義経一向、そして安宅の関の関守・冨樫左衛門らのやりとりが綴られたお話です2
話の中で、義経一向は山伏姿に変装し関所の通過を試みます。冨樫左衛門らに気づかれぬよう、弁慶は何も書かれていない巻物を勧進帳に見立て読み上げました。一旦は義経らを本当の山伏だと信じて関所を通過させた冨樫左衛門でしたが、家来の一人が「義経に似たものがいる」と訴えたため、再び義経らを呼び止めます。

変装がバレないように、弁慶は持っていた杖で主君である義経を激しく叩きました。その様子を見た冨樫左衛門は、弁慶の苦悶に満ちた痛切な思いに強く共感し、関所を通すのでした。

三好は、この冨樫左衛門の律儀な心に惚れ込み、その名前を拝借して、昭和4年 2 月 1 日に旧・橋口町の一角に「左衛門ぜんざい」を始めたのでした。

この冨樫左衛門の粋で優しい心意気は、今日の左衛門でも生き続けております。
「真心ひとつ、味ひとつ」という言葉となって、お客様に美味しいお菓子をお届けできるよう努力し続けております。


  1. 『浪花節』とは…
    多く軍書・講釈・物語・演劇・文芸作品を材料とし、節調を加えた語り物。三味線の伴奏で独演する。もと説経祭文から転化したもので、初めは、うかれ節・ちょぼくれ・ ちょんがれ節などと呼ばれた。江戸末期に大坂から始まり、浪花伊助を祖と伝えるが、盛んになったのは明治以降で、桃中軒雲右衛門の功が大きい。浪曲。(広辞苑 第五版 岩波書店より) ↩︎
  2. 『勧進帳』とは…
    歌舞伎十八番の一。三世並木五瓶作。1840 年( 天保11) 河原崎座の中幕に七代市川団十郎が初演。弁慶らが山伏姿となり、義経に従って奥州に向かう途中、安宅関で関守富樫左衛門の厳しい詮議に遇い、南都東大寺の勧進と称し、勧進帳を読み上げ、怪しまれた主を折檻して、ようやく通過した苦衷を仕組んだもの。能「安宅」の改作。(広辞苑 第五版 岩波書店より) ↩︎

「左衛門」という名前には2つの由来があります。

創業者 田中三好が創業以前に
生業としていた「浪曲」から

浪曲は「浪花節」とも言われていますので、その名を知る方もおられるかもしれません。
そして、古くは「説教祭文」が浪曲の始まりだと言われています。[1]
この「説教祭文」の「祭文(さいもん)」という音を転じて「さえもん」と解釈し「左衛門」の名前の由来の一つとしたそうです。

浪曲の演題のひとつ「勧進帳」から

「勧進帳」は三好の浪曲師時代の十八番(おはこ)でした。現在の石川県に位置する安宅の関での、源義経と弁慶をはじめとする義経一向、そして安宅の関の関守・冨樫左衛門らのやりとりが綴られたお話です。[2]
話の中で、義経一向は山伏姿に変装し関所の通過を試みます。冨樫左衛門らに気づかれぬよう、弁慶は何も書かれていない巻物を勧進帳に見立て読み上げました。一旦は義経らを本当の山伏だと信じて関所を通過させた冨樫左衛門でしたが、家来の一人が「義経に似たものがいる」と訴えたため、再び義経らを呼び止めます。

変装がバレないように、弁慶は持っていた杖で主君である義経を激しく叩きました。その様子を見た冨樫左衛門は、弁慶の苦悶に満ちた痛切な思いに強く共感し、関所を通すのでした。

三好は、この冨樫左衛門の律儀な心に惚れ込み、その名前を拝借して、昭和4年 2 月 1 日に旧・橋口町の一角に「左衛門ぜんざい」を始めたのでした。

この冨樫左衛門の粋で優しい心意気は、今日の左衛門でも生き続けております。
「真心ひとつ、味ひとつ」という言葉となって、お客様に美味しいお菓子をお届けできるよう努力し続けております。


  1. 『浪花節』とは…
    多く軍書・講釈・物語・演劇・文芸作品を材料とし、節調を加えた語り物。三味線の伴奏で独演する。もと説経祭文から転化したもので、初めは、うかれ節・ちょぼくれ・ ちょんがれ節などと呼ばれた。江戸末期に大坂から始まり、浪花伊助を祖と伝えるが、盛んになったのは明治以降で、桃中軒雲右衛門の功が大きい。浪曲。(広辞苑 第五版 岩波書店より)
  2. 『勧進帳』とは…
    歌舞伎十八番の一。三世並木五瓶作。1840 年( 天保11) 河原崎座の中幕に七代市川団十郎が初演。弁慶らが山伏姿となり、義経に従って奥州に向かう途中、安宅関で関守富樫左衛門の厳しい詮議に遇い、南都東大寺の勧進と称し、勧進帳を読み上げ、怪しまれた主を折檻して、ようやく通過した苦衷を仕組んだもの。能「安宅」の改作。(広辞苑 第五版 岩波書店より)